Category Archives:
柳坂曽根の櫨並木(天然記念物)
住所
福岡県久留米市山本町豊田1357
詳細情報
筑後路の秋を堪能できます。耳納北麓の紅葉・果物・緑花・野菜を満喫できます!柳坂櫨(はぜ)祭りも毎年開催しております。
おすすめ内容
櫨は漆樹科(うるしじゅか)の落葉喬木(らくようきょうぼく)で、福岡。佐賀、大分をはじめ九州各県と四国に多く、幹廻り1m内外、樹高5~6mである。
櫨はわが国に入ってきたのは、正保二年(1645年)中国船が桜島に漂着し、黄櫨(こうろ)及び搾蝋器(さくろうき)を伝えたのに始まりとされています。
灯明(とうみょう)用にされていた蝋は、これまで東北産の漆櫨(うるしはぜ)に依存して入手し難しかったので、九州の各藩は競って櫨の栽培に力を入れた結果、急速に多くなり当、久留米藩も寛保二年(1742年)国分村、鞍内村の田地に櫨の木を樹立させた後、生葉郡山北大野原に、時の「山守鑓水九左衛門」を桜島に派遣して得た伝来の唐櫨苗を植え付け、その後三井郡小郡(現小郡市)の「内山伊吉」が苦心の末、櫨を改良して「伊吉櫨(いきちはぜ)」と称し、この地を中心に筑後一円に広く普及した。
その後の普及は著しく、石原家記、久留米小史等には、櫨がこの地方の主要産物となり、米についで藩の財政に寄与したと記しています。(柳坂曽根の櫨も伊吉櫨)
当時、櫨は地方経済を左右し、吉井銀、小郡銀、と言われ筑後経済に威力を持ち始めたので、農家の人々は空き地は勿論、堤防等に競って植え、耳納連山から北流する川の曽根にはどこもかしこも植栽され、櫨並木は耳納北麓の景観を彩っていました。
この事は、ひとつには課税が少なかったこともこの挙の及んだとも言えます。
以来、昭和の初期までは大きな財力となり、至る所に櫨林が林立して、筑後路の風情を漂わせていましたが、戦後様相が一変して、エネルギー革命により木蝋(もくろう)の需要が激減し、今日では櫨は見る影も少なくなっています。
しかし最近は植物性のエネルギーや化粧品が見直されその需要も多くなっています。
この曽根の櫨は曽根の並木として、永勝寺参道の並木として、又、兜山登山道の並木として道行く人々に式を語り、特に秋には紅葉を彩ってきました。
平成6年には日本新街路樹百景に選ばれ、日本の景勝地として多くの人々から賞賛されています。
天才画家、青木繁は「我が国は、筑紫(つくし)の国や白日(しらひわけ)別け母いますい国、櫨多き国」と呼んでいます。
櫨はわが国に入ってきたのは、正保二年(1645年)中国船が桜島に漂着し、黄櫨(こうろ)及び搾蝋器(さくろうき)を伝えたのに始まりとされています。
灯明(とうみょう)用にされていた蝋は、これまで東北産の漆櫨(うるしはぜ)に依存して入手し難しかったので、九州の各藩は競って櫨の栽培に力を入れた結果、急速に多くなり当、久留米藩も寛保二年(1742年)国分村、鞍内村の田地に櫨の木を樹立させた後、生葉郡山北大野原に、時の「山守鑓水九左衛門」を桜島に派遣して得た伝来の唐櫨苗を植え付け、その後三井郡小郡(現小郡市)の「内山伊吉」が苦心の末、櫨を改良して「伊吉櫨(いきちはぜ)」と称し、この地を中心に筑後一円に広く普及した。
その後の普及は著しく、石原家記、久留米小史等には、櫨がこの地方の主要産物となり、米についで藩の財政に寄与したと記しています。(柳坂曽根の櫨も伊吉櫨)
当時、櫨は地方経済を左右し、吉井銀、小郡銀、と言われ筑後経済に威力を持ち始めたので、農家の人々は空き地は勿論、堤防等に競って植え、耳納連山から北流する川の曽根にはどこもかしこも植栽され、櫨並木は耳納北麓の景観を彩っていました。
この事は、ひとつには課税が少なかったこともこの挙の及んだとも言えます。
以来、昭和の初期までは大きな財力となり、至る所に櫨林が林立して、筑後路の風情を漂わせていましたが、戦後様相が一変して、エネルギー革命により木蝋(もくろう)の需要が激減し、今日では櫨は見る影も少なくなっています。
しかし最近は植物性のエネルギーや化粧品が見直されその需要も多くなっています。
この曽根の櫨は曽根の並木として、永勝寺参道の並木として、又、兜山登山道の並木として道行く人々に式を語り、特に秋には紅葉を彩ってきました。
平成6年には日本新街路樹百景に選ばれ、日本の景勝地として多くの人々から賞賛されています。
天才画家、青木繁は「我が国は、筑紫(つくし)の国や白日(しらひわけ)別け母いますい国、櫨多き国」と呼んでいます。